清春(本名:森清治)は、1968年生まれの岐阜県多治見市出身のミュージシャンです。
彼はどのような学生時代を過ごし、どんなきっかけでロックと出会ったのでしょうか。
この記事では
- 清春の学歴や出身校
- ロック音楽との運命的な出会い
について、主に紹介していきます。
彼の音楽キャリアの原点を、一緒に探っていきましょう。
清春の学歴と出身校

まずは、清春の学歴と出身校を確認しましょう。
清春の出身校は以下の通りです。
- 出身小学校:岐阜県多治見市立小泉小学校
- 出身中学校:岐阜県多治見市立小泉中学校
- 出身高校:岐阜県立多治見工業高等学校 デザイン科
高校卒業後は大学などに進学せず、地元で就職しています。
清春は幼い頃から芸術的な環境で育ちました。
陶芸家の叔父の影響で絵を習い、小学生時代には絵画コンクールで入賞するほどの腕前だったそうです。
一方で、音楽も好きで、子供の頃は西城秀樹や沢田研二といったスター歌手に憧れていたと語っています。
清春の小中学生時代 野球少年とアートの才能

清春の小中学生時代は、野球とアートの二つの才能が開花した時期でした。
小学時代からリトルリーグで野球を始め、ファースト兼1番打者を務める熱血野球少年でした。
地元中日ドラゴンズの大ファンとしてプロ野球選手になる夢を抱いていたほどです。
中学まではバリバリの野球少年だったんですよ。生まれが岐阜だから、もちろん応援する球団はドラゴンズ。いっつも球団の野球帽をかぶってた(笑)
出典:zakzak
中学校でも引き続き野球に打ち込み、「バリバリの野球少年だった」と本人が振り返るほど熱中していました。
しかし、美術の才能も健在で、作品がコンクールで入賞するなど多才ぶりを発揮していました。
清春の高校時代 ロックとの運命的な出会い

清春は1984年に岐阜県立多治見工業高校(デザイン科)に進学します。
この高校を選んだ理由は、校則で長髪が許可されていたためで、当時すでに音楽やファッションへのこだわりが芽生えていたことがうかがえます。
高校生になると、清春は友人たちとパンクロックのコピーバンドを結成してボーカルを担当し、高校2年生(16~17歳)の時にはじめて人前でステージに立ちました。
バンドの練習は地元多治見市内の楽器店「音屋」で行い、放課後の時間を音楽活動に費やしていたそうです。
高校時代には、清春がロックに目覚める大きな出会いがいくつもありました。
その中から主なエピソードを紹介します。
- 先輩との出会いとロックへの目覚め
- 憧れたロックスターとの出会い
- パンクロックとの出会いと衝撃
1. 先輩との出会いとロックへの目覚め
清春が音楽の世界に足を踏み入れるきっかけとなったのは、高校時代に知り合った年上の先輩の存在でした。
その先輩の下宿部屋は、壁一面にロックスターのポスターやレコードジャケットが貼られ、音楽雑誌も山積みになっているような空間だったといいます。
先輩から様々なロックやパンクの音楽を教わり、インディーズの世界や髪をスプレーで逆立てるファッション術までも伝授してもらったのです。
2. 憧れたロックスターとの出会い
高校生当時、清春はザ・ストリート・スライダーズに強く心を惹かれていました。
特にギタリストの土屋公平(ランマル)のビジュアルとスタイルに傾倒し、「もう本当にこの人になりたい!」と思うほど服装やアクセサリーを真似ていたそうです。
3. パンクロックとの出会いと衝撃
清春は高校在学中にパンクバンドTHE WILLARD(ザ・ウィラード)の音楽にも深くのめり込みました。
また、DEAD END(デッドエンド)のアルバム『DEAD LINE』を初めて聴いた際には、ボーカルMORRIE(森重樹一)の歌声に「なんだこれは?」と衝撃を受けたといいます。
これらの強烈な体験が、清春の中でロックへの情熱を一層高める契機となりました。
まとめ
清春の学生時代は、野球少年から美術好きの青年へ、そしてロックに魅了されバンド活動に打ち込む青年へと大きく変化した時期でした。
岐阜県多治見市の小中学校、そして多治見工業高校での経験が、彼の音楽キャリアの基盤を形成しました。
特に高校時代に出会ったロック音楽と先輩たちの影響は大きく、清春の音楽スタイルやファッションセンスの原点となっています。
これらの経験と出会いが、後の清春の独特な音楽性と表現力を育む土壌となったのです。
清春の学生時代の経験は、彼のアーティストとしての成長に大きな影響を与え、今日の彼の音楽スタイルを形作る重要な要素となっているのです。
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