沢口靖子といえば、透き通るような美貌と確かな演技力で長年にわたり支持され続けている日本を代表する女優です。
しかし、現在の沢口靖子を形作ったのは、学生時代のキャラクターや夢、そして多くの挑戦でした。
今回は、沢口靖子さんの学歴や出身校を中心に、小学校から大学受験までの逸話や、軟式テニス部での活動、さらには東宝シンデレラオーディションとの出会いまで、若き日の沢口靖子の姿をご紹介します。
沢口靖子の小中高時代 美少女伝説の始まり

沢口靖子さんは1965年6月11日、大阪府堺市西区堀上緑町に生まれました。
小学校時代は地元・堺市の公立校「堺市立平岡小学校」に通っていました。
この頃から、沢口さんは周囲から「目立つ存在」として認識されていたようです。
例えば、学年の人気投票で1位になったり、児童会の役員を務めたりと、すでに人気者だったことがうかがえます。
また、幼稚園から始めたピアノは高校卒業まで続け、書道やそろばんなども習っていたそうです。
中学校時代は、1年と2年の途中まで「堺市立上野芝中学校」に通い、その後「堺市立赤坂台中学校」に転校しています。
上野芝中学校では体操部に所属し、転校後の赤坂台中学校では軟式テニス部に入部したとされています。
この頃から、沢口さんの美少女伝説が徐々に広まっていったようです。
泉陽高校での沢口靖子 軟式テニス部と美少女ファンクラブの実態

高校は大阪府立泉陽高校に進学しました。この高校は堺市にある公立進学校で、偏差値が高く、学力のある生徒が多く集まる学校として知られています。
高校時代も軟式テニス部に所属し、朝練や休み時間の練習、試合前の過酷な練習など、体育会系の部活生活を送っていたそうです。
高校入学直後から「ものすごい美少女がいる」と校内・地域で話題になったといいます。
登下校の電車で、沢口さんが乗る車両が混み、”沢口靖子専用車両”と呼ばれたという伝説まであります。
大阪府立泉陽高校に合格するとすぐにすごい美人がいると有名になった。毎朝、堺東駅まで通う電車には彼女目当ての男子高校生がたくさん乗り込み“沢口靖子専用車両”と呼ばれていたという噂もある。
「え~、私は全然知らないです。のほほんと通学してました(笑)。堺東駅から商店街を通らずに、ちょっとした小道を通るルートを歩くのが楽しみでした」
泉陽高校にファンクラブがあったとか、沢口さん見たさに他校から男子高校生が学校に押し寄せたという“伝説”もある。
「それも、知らないです。冗談みたいなラブレターをもらったことはありますけど。駅で手紙をくれて、開けたら好きになった理由とか自己PRが書いてある履歴書が入っていたんです(笑)。ほんとに普通の高校生活を送っていましたよ」さらに驚くべきことに、中学の同級生の弟を中心に、私設のファンクラブが存在していたことを沢口さん本人がNHKトーク番組などで認めています。
出典:堺市
会員証まであったというこのファンクラブは、正式なプロのものではありませんでしたが、学生間で彼女を応援する組織として機能していたようです。
沢口靖子の大学受験と東宝シンデレラオーディション

高校3年生になると、沢口さんは大学受験に向けて本格的に準備を始めます。
5月まで軟式テニス部に所属し、引退後は受験勉強に集中。大仙公園近くの市立中央図書館を利用したり、友人と一緒に夏期の受験勉強を続けていたそうです。
志望校は奈良教育大学の書道科でした。実際、入学の手続きの用意までしていたといいます。
しかし、ここで沢口さんの人生を大きく変える出来事が起こります。
高校3年生の時、幼なじみの友人が新聞広告で「第1回東宝シンデレラオーディション」の募集を見つけ、沢口靖子を推薦したのです。
沢口さん自身は「記念に応募した」程度だったと語っていますが、結果は驚くべきものでした。
1984年、この第1回東宝シンデレラで3万余人の中からグランプリを獲得したのです。
これをきっかけに、沢口さんは大学進学を断念し、女優としての道を歩むことを決意します。
まとめ
沢口靖子さんの学生時代は、単なる「美しいだけ」の青春物語ではありませんでした。
書道、ピアノ、スポーツなど、多様な「表現」や「競争」「人気」「夢」が交錯する中で、女優としての素地と決断が育まれていったのです。
大学への道も準備していたにもかかわらず、それを断って女優の道を選ぶという大きな決断。
その背景には、家族の影響、教師や部活の先輩・仲間、そして自分の「これだ」というものに素直になる心があったのでしょう。
沢口靖子さんの学生時代の経験は、現在の彼女の演技力や表現力、そして芯の強さにつながっているのかもしれません。
これからも沢口靖子さんの活躍に注目していきたいですね。
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