声優界の重鎮として知られる山寺宏一さん。
数多くのアニメやゲーム、吹き替えで活躍する彼の声優としての原点はどこにあるのでしょうか?
今回は、山寺宏一さんの学歴や出身校、そして声優になるきっかけとなった大学時代の経験に迫ります。
特に、大学時代の落語研究会での活動が、彼の声優としてのキャリアにどのような影響を与えたのか、詳しく見ていきましょう。
山寺宏一の学歴と出身校

山寺宏一さんの学歴を時系列でまとめると、以下のようになります:
・小学校:多賀城市立多賀城小学校(推定)
・中学校:塩竈市立第一中学校
・高校:宮城県多賀城高等学校
・大学:東北学院大学 経済学部商学科(現 経営学部経営学科)
山寺宏一さんは1961年6月17日、宮城県塩竈市に生まれました。
小学校時代、4年生頃にクラスメイトから「お前はいろいろな声を出して面白い」と言われたことをきっかけに、自身の声の特性に気づきます。
これが、後の声優としてのキャリアの原点となりました。
中学時代はバスケットボール部に所属しましたが、3年生の時に膝を故障。
その後はマネージャーとして活動し、この経験が周囲との協調力や裏方の視点を養う機会となりました。
高校時代も引き続きバスケットボール部のマネージャーを務め、1980年3月に多賀城高校を卒業しています。
山寺宏一の大学時代と落語研究会

大学時代、山寺宏一さんは東北学院大学の落語研究会(落研)に所属しました。
この経験が、彼の声優としてのキャリアに大きな影響を与えることになります。
落研では「波慣家 文好」(はなれや ぶんこう)という芸名を名乗り、会長も務めました。
『転失気』『豆屋』『酢豆腐』『宮戸川』などの演目に取り組み、豊富な口演経験を積みました。
山寺さん自身、「大学に通うよりも落研に通っていた時間の方が圧倒的に長かった」「落語漬けの日々だった」と振り返っています。
まさに落語漬けの4年間で、「1人で登場人物を何役も演じることが楽しくて、大好きになりました。大学というより、落語研究会に通っていました」と振り返った。
出典:スポニチ
この経験が、彼の表現力や滑舌、話術の基盤となりました。
特に、落語家・古今亭志ん朝との出会いは山寺さんに大きな影響を与えました。
志ん朝のテンポ感、人物描写、滑舌、スピード感に強く感銘を受け、「志ん朝みたいになりたい」と思うようになったのです。
山寺宏一さんは「落研に入っていなかったら声優になっていなかった」とまで語っています。
山寺宏一の声優への道

大学卒業間近、山寺宏一さんは当初、広告代理店や旅行代理店への就職を考えていました。
しかし、大学の生協書架で偶然手に取った『声優になるには』という入門書が、彼の人生の転機となります。
この本をきっかけに、「役者・声優の世界に行きたい」という思いが強くなり、声優への道を決意します。
大学卒業後、山寺宏一さんは東京俳優生活協同組合(俳協)演劇研究所 第14期生として養成所に入所。
昼は鰻屋でアルバイトをしながら、夜は稽古や台本読み、発声トレーニングに励む日々を送りました。
そして、1985年にOVA『メガゾーン23』の中川真二役で声優デビューを果たします。
これが、現在の山寺宏一さんにつながる第一歩となりました。
まとめ
山寺宏一さんの声優としてのキャリアは、幼少期からの「声」への興味、そして大学時代の落語研究会での経験が大きな礎となっています。
特に、落語研究会での活動は、複数役を一人で演じ分ける「声の幅」、滑舌、間の取り方、観客との対話感など、声優に必要不可欠なスキルを磨く絶好の機会となりました。
山寺宏一さんの「落研に入っていなかったら声優になっていなかった」という言葉からも、この経験が彼のキャリアにとっていかに重要だったかがうかがえます。
現在、数多くの作品で活躍し、「七色の声を持つ声優」として知られる山寺宏一さん。
その原点には、学生時代の真摯な学びと、落語を通じて培った表現力があったのです。
山寺宏一さんの経歴は、夢を追いかける勇気と、日々の努力の積み重ねの大切さを教えてくれます。
これからも、山寺宏一さんの多彩な声の演技に注目していきたいですね!
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